• 災害/日本(2011)

赤十字の看護学生が体験した東日本大震災

日本赤十字社 先遣隊職員(岩手県大槌町)

2011年3月11日14時46分。修了式を間近に控えた石巻赤十字看護専門学校の生徒たちは自習の時間を過ごしていました。
ドーン――。突然の地鳴りとともに大きく揺れる校舎。これまでに経験したことのない強い揺れが長い時間続いたと、当時在籍していた学生は証言しました。
後に東日本大震災と呼ばれることとなる日本の東北地方太平洋沖で起きたマグニチュード9.0の地震です。

間一髪だった避難所への移動

地震発生時、海から約1.5kmの近さにあった石巻赤十字看護専門学校には、卒業式をすでに終えていた3年生を除いた2学年約80名の生徒と十数名の職員が校舎内にいました。現在、石巻赤十字病院で看護師を勤める藤田彩加さんもそのうちの一人。
「石巻ではその前にもいくつか大きな地震はあったのですが、2011年の地震は全く異なるものでした。当時、私は石巻赤十字看護専門学校の2年生で教室で自習していました。揺れが収まった後にみんなで屋外に避難しました」
津波の心配がありましたが停電が発生していたため、簡単に情報を入手できなくなっていました。
「多分、防災無線が流れていたと思うんですけど、正直言ってその記憶はあまりないんです。当時はまだガラケーが主流だったんですが、何人かはスマホを使ってて、一瞬繋がった人がいて『女川(宮城県女川町)で10m観測したって書いてある』って。それを聞いてこれは、やばいんじゃないっていう危機感を覚えました。数年前のとは全然規模が違うと」
そこで、より海から離れたところにある指定避難所の湊小学校へ移動を開始しました。道中では高台にいる人から大きな声がかかりました。
「急げ!」。
声に押されて慌てて小学校に駆け込み、後ろを振り返ると黒い水の塊が背後まで迫っていました。

石巻赤十字病院 藤田彩加さん

避難所での救護活動

「小学校に着いてからは他の避難者とともに少しでも高い屋上にいたのですが、当日は雪で本当に寒くて。あと、電気がないので夜になると真っ暗。外の状況がどうなっているのか全く分かりませんでした。それぞれの携帯電話と私たちは電子辞書を持ってたので、その液晶画面の明かりを頼りにして手元のみ何とか明るさを確保しました」

夜が明けると徐々に被害の状況がわかってきました。しかし、看護学生にとっては屋外の状況もさることながら、避難所に避難している住民の健康が気掛かりでした。
「石巻赤十字看護専門学校の先生たちと湊小学校の先生たちとで具合が悪い方々の手当をしていました。それを見て私たちも何かをしなくてはと思ったんです」
寒がっている避難者の背中をさすったり、トイレの掃除をしたりと、救護活動を開始。しかし、できることは限られており、もどかしく思う場面も。
「避難者の方に人工透析患者の方がいらっしゃったんですが、励ますことしかできなくて……。本当に辛かったです」

そんな救護活動を続ける藤田さん自身も被災者。学校から直接避難していた為、ご両親とお姉さんとは離れ離れになっていました。携帯電話が通じていた地震発生直後に家族3人の安否確認はできていたものの、津波到達後は連絡が途絶えていました。お姉さんとは地震発生の約10日後に再会できましたが、ご両親と再会できたのは約20日後のこと。携帯電話の復旧が進まず連絡がつかない中、お姉さんと各地の避難所を回りようやく見つけることができました。

石巻市の壊滅風景(展望台からの撮影)
当時避難した湊小学校

看護を続けるという強い想い

「私たちがやらないで誰がやるのか」
救助がくるまでの3日間避難所で救護活動を続けていた藤田さん。彼女を支えていたのは困難な状況下でも揺るがない“人を守る”という強い想いです。
「助けを必要としている人がたくさんいたので、それを見過ごすわけにはいきませんでした。自分一人だったら動けなかったかもしれないけど、同じ立場の学生たちがいたことが大きな力になったと思います」

藤田さんは現在も石巻に残り石巻赤十字病院で看護師を続けていますが、災害発生時への備えも怠りません。
「災害医療は現場にあるもので最適な処置をしないといけません。そのためには多くの知識を身に付ける必要があると思っています。そして、常日頃から患者さんとそのご家族に寄り添えるような看護を心掛けています」

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